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乳熊寺

乳熊寺本尊
千手観世音菩薩

乳熊寺本尊
千手観世音菩薩

歴史

乳熊寺の「乳熊」とは、当地の古代地名の名称「伊勢国乳熊郷」から取られたものである。乳熊郷とは武蔵国の豪族であった千(ち)熊(くま)長彦(ながひこ)のご所領であったと伝う。千熊長彦の詳細は不明であるが、『日本書紀』には神功五十一年(三七一)百済の朝貢に対し、千熊長彦は日本最初の外交官として百済に派遣し百済との同盟を成立。翌五十二年(三七二)に百済への使者と共に帰朝し百済王からの七枝刀・七子鏡等の献上品を神功皇后に届けさせる外交の成功を収めた(七枝刀は奈良県石上神社にあり国宝)。伊勢国乳熊郷はその功利により賜ったご所領である。当時の領域は中万および射和、八太を含む広域の一帯であった。

 乳熊寺よりも古い歴史を持つ延喜式内社の石前(いわさき)神社の本来地は乳熊寺の隣地であり、乳熊寺は石前神社の別当寺であったという。そのことから千熊氏族は乳熊寺周辺に屋敷を構え氏社として石前神社を建立し、仏教興隆後には氏寺として乳熊寺を建立したのであろう。

 中万の鬼門位(東北)にある神山(こうやま)が、倭姫命の巡行の「飯野(いいの)高宮(たかみや)」の地であったと推定される十九番目の元伊勢の地であることから、この地を授かった千熊長彦は有力な氏族であったことが伺える。現在神山々頂には天台宗寺院の神山一乗寺、山麓には神山神社がある。(ちなみに遷座後の神山の管理には、櫛田川向かいに住する佐奈県造祖弥志呂宿禰命(さなあがたつくりのそみしろのすくねのみこと)を命じているが、佐那神社の祭神は有力な神である天手力男命(あめのたぢからおのみこと)である。佐那社の元地は金剛座寺のある金剛山であったと推定されるが、神山が金剛山の鬼門位に位置し神山が金剛山から見えるのも偶然ではないと考える。また佐那神社横を流れる佐奈川は神山の前の櫛田川で合流する。飯野高宮を持つ乳熊は佐那県造と密接な関係があったと伺える)

 石前神社の祭神は道乃長乳歯神(みちのながちはのかみ)である。道乃長乳歯神は伊耶那岐神(いざなぎのかみ)が禊(みそぎ)において投げた帯から化生した神で、長い道と岩(歯)を表しているといわれており道中の守り神であるといわている。千熊長彦の朝鮮道中の守り神であったのであろうか。または櫛田川と神山を表しているのであろうか。「千熊」が「乳熊」になったのはこの神の漢字を使ったものであろう。ちなみに「チ」も「クマ」も「神」を意味する古語である。その後豪族でありながらも千熊氏族の消息は現在に伝わっていない。不思議なことであるが隣の豪族の佐那県造も消息が途絶えているのは理由が同じ可能性も考えられる。

 乳熊寺の開創年代は不明であるが、氏寺として建立されたとなると六世紀頃の開創になると思われる。行基菩薩の開創と寺伝では伝えている。山号は「神生山」であるが、「神」は神山を指すものと思われる。
奈良期に入ると千熊氏族はすでになくなったが、時が過ぎて乳熊郷は多気町丹生の水銀の座として西域が特に栄えはじめ、平安期には射和村が分離誕生した。乳熊寺のあった中心地も乳熊郷とは別漢字名とし「中万(萬)村」と改名した。「中万」とは当時の「乳熊」の発音であったと考えられる。万(マン)の発音は「乳熊寺」の地元発音が「チクマンジ」と「ン」の無声音が入るため「万」の字を、同じく「チク」も「ク」が無声音化して発音が変化し「チウ」となり同音の「中」の当て字をしたものと思われる。または乳熊郷の中心という意味を含めて「中」の字を選択したのかもしれない。中万村も射和村と共に発展したが、南北朝時代に神山の戦火に巻き込まれ乳熊寺も灰燼した。その後一乗寺は北畠氏族によって復興した。本来乳熊寺は一乗寺と兄弟寺院だったと思われるが江戸期、比叡山派から安楽律法流に属したため天台宗ではあるが法流的には乳熊寺と離れることになる。

 江戸期に入ると中万は松阪伊勢商人の地として栄えた。中でも竹口作兵衛は江戸日本橋に味噌屋をかまえ、屋号を乳熊屋と名づけた。作兵衛は赤穂四十七士の一人大高源吾と俳諧の友であったため、討ち入り後泉岳寺に行く途中の四十七士を棟上祝いであった乳熊屋に浪士を迎えいれその労に甘酒粥をふるまった。大高はそのお礼に棟木に由来と看板を筆したことが江戸の名所になったという逸話を残している。また歌舞伎の『四千両小判梅葉』では、「味噌は乳熊にかぎる」と名台詞があるほど、竹口家を通して乳熊の語は江戸の文化に広まった。

 中万が発展するなか中興の祖清海上人(寛文七年(一六六七)没)によって乳熊寺は現在の四間半三間の御堂が中万の里寺として再建された。小堂ながらも御堂の彫刻や本尊千手観音の厨子は立派な造りとなっている。あわせて小さな庫裏が御堂右脇に建立された。寛文十二年(一六七二)に境内に祀られていた上之宮石前神社が鬼門(東北)方位の四五〇米先の森へ遷座された。明治に入ってからも里寺として中万の人々に親しまれ、正月のお参りやドンド焼き、初午参り、庚申参り、お盆供養などの法要が行われた。特に中万のしょんがいの盆踊りは有名で、「踊り寺」と称された。
 
 しかし無住無檀家の小寺であったため荒廃が著しくなり、平成に入って脇壇の仏像が盗難、更に平成十二年には本尊千手観音像が盗難された。御堂は荒廃が進み台風によって屋根が崩れてしまい高額にかかる御堂再建はままならない状態となった。平成二十一年四月に地区集会で惜しまれながらも解体を決定したが、六月その報を知った隣町多気町の金剛座寺住職染川智勇が乳熊寺復興を決意し、兼務住職として就任してお堂解体が中止され、本堂堂庫裏と庚申堂が再建、仮本尊が安置された。

 現在、乳熊寺を通して多くの仏縁者の信者と共に、幸せへと導くことのできるお寺を目指し復興中である。

○現在の主な行事
・正月参り(大晦日・元旦)、・初午(三月上旬)
・盂蘭盆会(八月十四日)、・庚申参り(庚申日・年六回)